皎天舎

汚辱のお話?

 白地に3色のドットといえば、そうあのシリーズです。新潮文庫から出ている、J.D.サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」。赤系ドットデザインの「フラニーとゾーイー」は残念なことに現在、品切れ・重版未定となっています。サリンジャーは遺作となった短編小説「ハプワース16、1924年」を1965年に米誌ニューヨーカーに発表し、この短編を最後に社会から距離をおき、ニューハンプシャーの高い塀に囲まれた自邸にて長い隠遁生活を送ります。そうして2010年1月、91歳で静かにこの世を去りました。「ハプワース16、1924年」は当時、米国では単行本化されませんでした。日本では1977年に単行本として荒地出版社より出版されています。この本も現在では古書店でしか見つけることができませんでしたが、今年、新潮社のレーベル、新潮モダン・クラシックスより『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』として処女作「若者たち」を含む全9編にまとめられ発売されました。

「どちらかといえば、汚辱のお話が好き」の台詞は、「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)に含まれる短編「エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに」に登場するものです。「汚辱」の言葉と裏腹にサリンジャーは、「イノセント(無垢)」をテーマに活動してきた作家として知られています。サリンジャーの小説には、のちにグラース・サーガと呼ばれるようになるグラース家の7人兄弟をテーマにした短編小説群や、現在でも毎年50万部を売り上げ、これまでに6500万部の販売数を記録している「ライ麦畑でつかまえて」(キャッチャー・イン・ザ・ライ)(白水社)の主人公ホールデン・コーフィールドと妹のフィービーなど多くの若者たちが登場します。「ライ麦畑でつかまえて」で青年の生き生きとした語り口調(周りの人や社会に対して不満や批判を延々と語り続ける描写)があまりに有名なため、彼の小説はしばしば反体制的な危険思想としての烙印を押されたこともありました。こうしてサリンジャーが描く若者たちは社会に反抗する子供たちというイメージが生まれました。しかし、これらの小説に登場する若者たちは無防備に無垢なのではなく、社会と関係性を深めつつある思春期に「誠実であること」を守ろうとし、必死に抵抗する者たちです。エズミや「小舟のほとりで」に登場するライオネルの視点を通して、おとなの社会の不条理や欺瞞が繊細な台詞によって鮮烈に映し出されます。

「エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに」は、サリンジャー自身の戦争体験をもとに書かれており、エズミの話し相手である「私」のモデルはサリンジャー自身であると言われています。戦争という理不尽に対する憤りを胸にしまい、戦争によって蝕まれた人々の心の傷を癒す手立てを懸命に探るサリンジャーの苦悩を伺い知ることができます。「コネチカットのひょこひょこおじさん」にもグラース家の兄弟を襲った戦争の後遺症が影を落としています。

「ハプワース16、1924年」は、「ナイン・ストーリーズ」、「フラニーとゾーイー」「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモアー序章ー」に続き発表されました。グラース家の長男・シーモア(シーモア・グラース=もっと鏡見て)が7歳の時にキャンプ地から両親に送った書簡体小説です。最後の小説となりましたが発表当時の評価は決して高かったとはいえません。どちらかと言えば酷評の方が多いものでした。しかし、これらの短編小説群を遡っていくとシーモアが辿った短い人生を振り返ることが可能です。神童と呼ばれ兄弟の支柱となった青年の苦悩や兄弟に向けられる温かな眼差しを読み取ることが少しだけできるように思います。「ナイン・ストーリーズ」の最初の短編「バナナフィッシュにうってつけの日」で語られた衝撃的なシーモアの最後には多くの謎が残ります。これまでにも多くの学者やファンによって様々な可能性が説かれ、多くの解釈が生まれていますが、サリンジャーはそのことについて、何の説明もしないまま文壇から去りました。彼の小説が単行本化される際には、解説やあとがきの記載を一切許しませんでした。彼が残した小説の映画化も、一作品を除いて(「ナイン・ストーリーズ」に含まれる「コネチカットのひょこひょこおじさん」が映画「愚かなり我が心」として公開されたがサリンジャーは出来栄えに激怒したと言われている)許可されることはなく、作者自身の隠遁生活もあり謎は謎のまま残されており、全ての解釈は読者自身に委ねられています。

サリンジャーは多くの短編小説を書いていますが、単行本に残すものとして自身によって9つの物語が選ばれました。それが「ナイン・ストーリーズ」です。この中にはグラース家の兄弟たちがいたるところに登場します。しかも、その登場時、すでに子供ではなく大人になってからの物語が多いのも事実。「社会に反抗する無垢な子供たち」のイメージが違う角度から見えてくることでしょう。「フラニーとゾーイー」は7人兄弟の末っ子の女子大生フラニーと、一つ上の兄で俳優のゾーイーの物語がそれぞれの短編として構成され、次男のバディによって語られるものです。思春期の青年が直面する、現実に対する折り合いのつけ方を模索する過程で宗教哲学や東洋思想を織り交ぜた禅問答のようなやりとりが繰り広げられます。

もし、あなたが10代の若者であれば、今のうちに読んでみてください。意味がわからないことも多いでしょう。しかし、今のあなたでしか感じられないものがあるはずです。そして数年後読み直してみたときに小説の中と自分自身の中に起こった変化を感じ取れるはずです。もし、あなたが立派な大人になっていたなら、今すぐに読んでみてください。人生の時を重ねると同時に振り落としてきたものが見えてきます。それを若気の青臭さとして受け流すのか、ディストレスとして客観的に受け止めるか、それはあなたの自由です。おとなになってから読む方が人生の澱を知ってしまっている分、切なく感じるかもしれません。

2019年1月1日、サリンジャー100回目の誕生日。色褪せることのない青春小説の代名詞・サリンジャーを読みながら、いくつになっても褪せることのない無垢な心の断片を、あなた自身の中で探索してみてはいかがでしょうか。

※サリンジャーの小説はこれまでに訳者によって異なる版が出版されています。現在新刊書店で入手できるものとして、「ナイン・ストーリーズ」は野崎孝訳の新潮文庫、柴田元幸訳のヴィレッジブックス版があります。「どちらかといえば、汚辱のお話が好き」は野崎版によるものです。近年刊行された柴田版では「私、悲惨をめぐる話がいいわ」となります。野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」と村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(共に白水社・白水Uブックス)、野崎孝訳の「フラニーとゾーイー」と村上春樹訳の「フラニーとズーイ」(共に新潮文庫)があります。この他に古書店ではサリンジャー選集(フラニー/ズーイー・ハプワース16、一九二四・倒錯の森・若者たち・九つの物語/大工たちよ〜など全5巻)、中川敏版「九つの物語」などが入手可能です。サリンジャーの小説はとても繊細で計算され尽くした言葉を用いられているように感じます。その時代や訳によって感じ方が微妙に変化するのも面白いところ。読み比べてみるのも楽しみ方のひとつです。

※この記事は、2018年11月に旧朝陽館荻原書店で開催した「サリンジャーフェア」の際に投稿されたました。